第1話・・・ 悪夢の48時間(神戸における震災との死闘)
悲惨!無情!無念!巨大地震は、何10年も錬え、積み重ねてきた経験と力をはるかに上回るものであった。 市民の生命、身体、
財産の保護のために職を奉じたものにとって、 こんなに辛い1週間はなかった。
1ヶ月過ぎた今も、その悔しさや無念は、頭から離れようとはしない。 水さえ出てくれれば!救助にもっと人手と道具があれば!
貯水槽を二つ空にして次の水槽を探そうとした時にも、 まだ応援は来てくれない。 その目の前に助けを求める人がいる。
炎は容赦なくせまってくる。
倒壊した木造家屋は絶好の燃え草となった。 しかし、 その下に人が助けを求めている。 それはまるで地獄絵に等しかった。
極端に興奮した家族は、 隊員に殴りかかってきた。 「水さえ出れば!・・・・・」 「と言葉にならない。
「悔しい!」 無念がこみ上げてくる。
午前中には、1、300名の全職員が、ほぼ活動体制に入れた。 比較的被害の少なかった北消防署や垂水、 西消防署から、 北
消防団、 西消防団も兵庫区や長田区へ応援に駆けつけた。
しかし、 この時には、 火点や火面は、 もうその力をはるかに上廻っていた。 プールや川を堰きとめ、 あるいは運河へとポンプ
の吸管は水を求めた。 消防艇からは、 六線ものホースが延々と2キロもの路上を這った。 続々と投入されてくる全国各地から
の応援消防隊が、 その間に入って中継した。
それをトラックが踏んでホースが破れ、 貴重な水が無駄となる一幕もあった。
俄作りの混成部隊、 指揮体制がうまく行く筈がない。 又、 波のちがう無線もままならなかった。 唯一全国共通波に連絡は
救われた。 その間にも炎は、 拡大の手をゆるめず、 西端は、 西部石油コンビナート地区へと迫っていった。
時に地震から12時間後である。
続々と投入されてくる応援部隊を指揮して延焼阻止に奮闘してくれたこの面の指揮者には頭の下がる思いがする。 同時に、
東部第二工区では、 LPGが漏洩していた。 タンクからの取り出しバルブの結合部分に亀裂が生じた為である。 この部分は、
どうにも止めようがないと言う。 それでも初めの頃は漏洩したガスが防油堤内に納まっていたが、 それが溢れ出したからいけない。
高発泡で押さえようとしたが所詮洩れているものには役立たない。
ここへは民間の防災センターを主体に化学車5セットを配備させた。 国道2号線以南の住民約7万人には避難して戴く事となった。
翌日の明け方6時の事である。 それから12時間、 現場では、 漏洩防止の死闘が続いた。 幸い17日に入荷の予定だった
隣のタンクが空いていた。 これへ移す為の工事が始まった。 静電気も火花も、 それは一触即発を意味する。 モーターを動かす
電力も特別に送られた。 そして移送が開始されて、 夕方の6時30分避難を一旦解除する事が出来た。
家屋倒壊で避難、 その避難先も追われる避難は、 出来るだけ避けなければならない。 生活重視の最善の処置であったが、
あれに引火しておれば・・・・・・と考えると背筋が寒くなる。
これらの部隊運用も含め消防局指令室は、 混乱を極めた。 幸い市役所3号館の損傷は少なく、 30億円をかけた新官制
システムの主要部分は、 その機能を失わなかった。 12台の受令台は、 鳴り放しになり、 3台の無線台は、聞き取れない程、
交信が続いた。 しかし、 地震直後、 監視テレビは映らなくなるし、 119番は、 無言が続いた。 無線も充分に各署の指揮者の
情報を伝えてくれなかった。
1号館24階に駆け上がって得た市街地の情報がまず最初と言って良いだろう。 その時すでに20本程の煙が上がっていた。
その時の通報状況、 無線報告等から火災発生35件、 その内、 復旧した監視テレビでは、 10ヵ所が大炎上と確認している。
6時50分から消防局の災害対策本部が、 管制室に設置され、 市内各地の情報収集と災害対応がなされた。 3階事務所も混
乱していた。 転倒した書棚や机を起こし、 電話を点検して情報を収集しようとするが電話の半分は話中音で通じなかった。
それでも参集して来る職員で情報収集に努めたが、 応援出動や資材の搬送、 応援隊の案内で、 その主力は常にそこになかった。
そこでも緊急車や人手は、 いくらあっても足らなかった。 午後2時頃、 空からと地上からのビデオが唯一の情報となった。
それによって各区の地図に火災の状況が記入出来たのは夜半になってからである。 その街区を計算して焼失面積が100ヘクタール
と推定できたのである。 それらは、 今までの防災計画や災害活動では一度も体験し得なかった事である。
家族を親戚や縁者にあずけ、 ある職員は、 路上に置いた車の中に妻子を置いての活動である。 当日当直だった職員が家族
の安否を知ったのは3日も経ってからというのが何人もいる。 幸い、 職員の負傷は軽症以下だったし家族をなくしたもの、 13人、
家が壊れたもの、 152人で。 それらの職員も、 公共のため不眠不休で必死に働いた。
そうする事が任務だと心に決めていたからだ。
隊員たちが僅かな休みの間に記した沢山の手記が寄せられた。 他都市からも寄せられた。 そして彼等と世相は、 それを特集
する事を望んだ。 記録を残したかった事もあるが、 必ず読む人に訴えるものがあると信じたからである。 全国の消防本部から
沢山の隊員の応援を受けた。 そして、 その人達にも同じような苦しみと悲しみを与えてしまった。 それ程、 たった数10秒の大地の
揺れが残していったものは大きかった。
今後は、 全国の同胞に対し、 このお礼をしなくてはならない。 それはこの大騒動の結末を立派にやってのける事もその一つだ
と肝に命じている。 神戸がどうの、 東京ではどうの言う各論はともかく、 日本の社会にとって震災対策の強化が叫ばれようとしている。
今回、 現場で頑張ってくれた隊員達には本当にご苦労様と言いたい。
今、 神戸市では、 学識経験者や市民を含む各界代表の手で消防のあり方を見直そうと消防基本計画検討委員会が設置された。
そこでは消防体制の基本方針をはじめ地域の機能との連携や施設設備が検討されようとしている。 期待したい。
今 回の一連の活動に対し、 自治省消防庁猪野消防課長の決断と配慮に対し、 満腹の信頼と深勘なる謝辞を付け加えたい。
西田 和馬 (予防部長)