第15話・・・・・消防士はがんばった(神戸における震災との死闘)

 

 このたびの地震では、もっと早く消火し、もっと多くの人を助けたかったと消防士全員残念に思っています。 被災された方々には

心よりお見舞申しあげます。

 でも、消防士一人一人は精一杯活動した。身内を褒るのも変な話だが、改めてみんな頑張るなあと感じた。通信手段も交通

手段も途絶え、あるいは自宅が被災しても消防士は一刻を争い仕事に行った。

 灘消防署でも当直の隊員以外の77名に対し非常招集がかかり、ほとんどの職員は自発的に参集し、10時までに50人以上が

灘消防署にかけつけることができている。

 地震当日には灘区内で16件の火災が同時に発生した。灘消防署にはポンプ車は予備車を含めても6台しかない。可搬式動力

ポンプも2台。16件の火災に対して水を送れるポンプはすべて合わせても8台ということになる。しかも、消火栓はすべてダメ、

防火水槽も数基は被害を受けたが、頼りは防火水槽、学校のプール及び川の水だけだった。

 60人はどの人員で灘消防署にあるホースはすべて使い切り必死の消火活動だったが、結果的には、圧倒的な火勢の前に

道路を利用した延娯阻止を行うのが精一杯という火災が5カ所も発生した。

 さらに本当に申し訳けないことだが、消防車が消火に駆けつけることもなかった火災も数件あった。そうした現場では、消防団や

地元の方々がバケツリレーなどでなんとか延焼をくい止めてくれた。

 一方で、灘区内だけでも一万棟を超える全壊、半壊の家屋があり、至るところで救助を求められた。40人足らずの救助隊、

救急隊を中心に、休む暇もなく次から次へと救助活動を実施した。とは言っても、神戸消防の有している資機材には、ユンボや

ンクレーのような重機はないので、結局、チェーンソーやバールが主な道具という状態で人力が頼りだった。その結果、17日だけでも

100人以上の方々を救出した。

 中には残念ながらお亡くなりになっている方もいたが、80人近くの方々を生存救出できた。17日の救出現場での生存率を考えると、

もっと救助の人手があればと悔やまれる。

 市民の皆さまにぜひ知っていただきたいのは、消防は早いと言われるはどではないかも知れないが、17日の午前中には東京や

大阪などの消防車が神戸市の応援に出発してくれた。非常な道路渋滞に巻き込まれて、少し到着は遅れたが、17日夕方には

応援隊も到着し、おそらく、他のいろいろな応援隊と比較しても一番早い方だと考えている。

 18日以降は、多くの他都市の消防隊、救助隊、救急隊め応援を得て、急ピッチで消火活動、救助活動に当たった。水が不足して

いるので、すべての火災を鎮火するのに3日間かかった。その間は、本当に寝る問も食事する問もないという状態であった。救助

活動も、全国各地の救助隊の応援をいただき、自衛隊と地域分担して実施していった。

 初めは、まだ声が聞こえるという現場を最優先に、確実に人が埋まっているという情報のあるところ、そして最後には、しらみつぶしに

倒壊家屋内を調べていった。こうした状態で10日間ほどが過ぎた。日頃から体を鍛えている消防士と言えども体力の限界を感じた。

特に頑健な救助隊員でも過労で倒れ入院するなど、ダウンする隊員も次々と出てきた。

 思い出してみると、汚い話だが、水の1滴も飲まずに活動していたため、初めの24時間で小便にも2回しか行かなかった。さらに

悪いことに、ドロドロに汚れても水がなく手を洗うことも、うがいすることもむつかしい状況で、風邪まではやってきた。こうした最悪の

状況の中でも、すぐ近くの金沢病院の協力を得て、点滴を打ちながら頑張った隊員が多くいた。

 救助作業が完了し、ようやく2月になり仕事も少し落ち着きを取り戻し、隊員も体力を少しずつ回復しつつある。確かに組織の問題、

人員・資機材の不足の問題などがあり、市民の皆さまに対して十分な消防の責任を果たせなかったことは、心から申訳けなく思う。

しかし、消火活動に、救助活動に、救急活動にと全力を出し尽くした消防士は、頑張った。災害現場の経験の少なかった若い隊員も、

ぐっと頼もしくなった。この経験を無駄にすることなく、より素晴らしい神戸消防に生まれ変わることを固く決心している。

 

今村 明(灘消防署)消防広報誌「雪」から転載

 

 

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